フイルムがいつまで売られるのか、これは由々しき問題である。
よしんばフイルムが残っても、同時に現像機械も残さなければフイルムは生き残れない。
フイルムは確実に値上がりをするだろう。
ネガフイルムですら、人箱1000円の時代が来るかも知れない。
ただ古いカメラを使うために、フイルムカメラを使うものにとっては大変な時代になって行く。
いや、本当はフイルムだけではない。カメラが問題なのだ。
こういう時代になって、生産中止されたカメラが中古で安く手に入る。
これはじつは本意ではない。余裕があれば、誰でも新品は欲しいのだ。ただ、本末転倒しているだけなのだ。
だけど、ニコンはF6とあの安物しか造ってはくれない。買わないユーザーが悪いのか、デジタルに切り替えたメーカーが悪いのか言葉に詰まる。どちらも、張本人かもしれない。
商売は売れなければ成立しない。つまり売れないのは、買う人が居ないからであり至極明快だ。
しかし、それだけで済ますのはよくよく考えると不合理に尽きる。
デジタルを造ったのも煽ったのも、やはりメーカーであった。人は踊らされたのに過ぎない。
よしんば、世界でデジタルの開発が数十年遅れたならばどうであろうか。
これは、戦争と発展に似ている。広島と長崎と多くの犠牲の元に、今の平和はある。
デジタルの開発は原爆になってはいけない。そう思うのだ。
これは何もニコンを非難しているのではない。
便利さを追求するあまり、人間は何か大切なものを失いかけているような気がする。
絵画は千年も変ることがない。これからも変らないだろう。
しかして、写真はどうだろう。
パソコンは紙の消費を抑えられただろうか。職場で紙は市民権を失っただろうか。
デジタルは改竄されるとして、見た目ほど信頼性は乏しい。フイルムのように形にならないからだ。
いや、そんなことは写真家にはどうでも良かった。
フジフイルムが中判カメラを造った。これは使命感のようなものだろう。
カメラを提供しないと、フイルムは止まる、それを示唆しているように感じた。
しかして、堅牢な金属カメラはどうであろう。孤高の存在で良いのだろうか。
デジタルカメラを使う人の中には、フイルムカメラを見限った人が多くいる。
そう思う。それは、状況が変ったからでありそれ以外の何物でもない。
自分はデジタル人間であると同時に、長い間アナログ機械を使ってきた人間でもある。
いや、カメラのことではない。
その人間がデジタルに期待するのは、じつは何もない。
ただ高性能であれば良く、駄目なら叩き壊すのも苦ではない。つまり、感情はない。
フイルムカメラは、どんな安物でもそれはしかねる。
D90も然り、よく仕事をしてくれるがただそれだけ。自分にとってのパソコンとなんら変らない。
パソコンは十台以上作ったが、いずれもゴミ箱行きであった。デジタルカメラもそうであり、
感情は持てないのだ。これはこの先も変らないだろうと思う。
そんなフイルムを作るメーカーは本当に偉いと思う。
もちろん、アナログカメラを造るメーカーも然りだ。
フイルムカメラはどう拭おうとしても、機械であることが拭えない。
それはデジタルと相容れない所以だろう。
あの抵抗やダイオードの小さな部品、そんなのが張り付いているカメラ達。
許容できるものたちがあった時代だ。
いや、なによりもフイルムがあったのだ。
つづく