おカメラって言うのはどこまで行っても単なる道具なんだけれど、人によっていろんな使われ方をする。
使われれば道具なのだけれど、使われなければ飾りとなる。
使いすぎると剥げたり凹んだりギザギザになったりする。
仕事が嫌になると、突然動かなくなりストライキを始める。下手な使い方をすると新しくても動かなくなる。
動かしすぎればコワレル。
み~んな使うものに責任がある。
自分が大枚をはだけて買ったモノはそこそこ大事にする。キズが付くと何より下取りに響くと考える。
良く考えると大事にしているんではなかった。傷まないようにしているだけだった。
会社のモノはもっと悲惨かもしれない。
嘘ではない、ほんとうだろ。仕事で使うクルマもパソコンも何だって道具に徹している。
言われれば、まあ言われればだよ綺麗にしようとすることもある。
自分のものは暇ならそこそこ手入れを欠かさない。モノに愛情なんて最初からないのがモノの宿命だ。
モノは新品である時から一気に中古になる分岐点というのが確実に存在する。
クルマで言えばせっせと磨いている時期がかなりある。
それが、ぴ~いっと細い線が30センチ程入った頃を境に待遇は激変する。下取りが安くなった瞬間だ。
それは全ての機器に共通する。
認知する傷の度合いがある限度を超えたとたんに、処遇は豹変し中古の認識となるのだ。
これらのボーダーライン越えをもって、大切な機械はただの道具として扱われるようになる。
これをデジタルルネッサンスという。
大枚はたいて手に入れた機器はまだいい。それ以外は最初から道具なのだから救われることはない。
そういう人間が撮る写真はやはり隷属的で悲しい。
金属製の古いおカメラは使うとメッキが剥げて真鍮が剥き出しになる。
未だに勲章のように言われるがそうではない。丁寧に使えばメッキが剥げる前に所有者は死ぬだろう。
粗末な使い方を露呈しただけだ。
クルマも全く同じだ。ラフに使えばすぐヘタル。仕事で使えば長生きは無理だろう。
今時のデジタル一眼レフカメラは精密機械になったのだけれど、
精密機械になったということが全くわからない人がほとんどを占める。
これはパソコンもカメラもテレビも機械は皆同じだ。
一眼レフにはコンパクトカメラにはないステータスがある。これは本当だ。
機種や価格は全く関係ないステータスがあるのだ。
一眼レフを持つと言う事は特別なことである、と人は思っている。
一眼レフを持つと言う事は特別な人である、と人は思っている。
一眼レフを持つ人は写真を撮る人である、と人は思っている。
一眼レフを持つ人は写真をやっている(薬ではない)人である、と人は思っている。
一眼レフを持つと言う事はカメラに長けている人である、と人は思っている。
一眼レフを持つと言う事はとても羨ましい人である、と人は思っている。
一眼レフを持つと言う事は凄い人である、と人は思っている。
一眼レフを持つと言う事は自分にはとても無理である、と人は思っている。
一眼レフを持つと言う事は夢のまた夢である、と人は思っている。
つまり、自分たちが持っているコンパクトデジタルカメラとは別世界のものという線を引いて見ている。
これは一定の線が引かれていると言うことであり、決して交わうことはない。
よって、ステータスが形成されてしまうのだ。その人達から見れば、一眼レフを持つ人達は凄い人達なのだ。
もちろん、
おばさんでもおぢさんでも中学生でもアメリカ人でも中国人でも人種年齢を問わずまったく同じなのだ。
付け加えるならば、技量は全く関係ない。本当は使えなくてただ提げているというだけでも全く問題ないのだ。
ステータスはそういうものなのだ。
残念ながらライカもオリンパスペンもその人達には通用しない。黒いボデイにくろーいレンズ。
それでストラップはメーカー名の入ったオリジナルなら尚良く、
もちろんニコンやキヤノン、ペンタックス、オリンパスなど日本のメーカー品に限るのだ。
毎日、東京のど真ん中銀座の交差点を往来する世界中の人達をみて心底そう思う。
メーカーは一眼レフに誇りを持って良いし、また持たねばならない理由がここにある。
外人が肩から提げるのは間違いなく、日本の一眼レフカメラだ。その人達の提げているのは間違っても
道具などではない。
自分のお気に入りの大切なカメラなのだ。一眼レーフおカメラなのだぞよ。
わかるかなあ。あははははは。