またまたわしの出番じゃわい。
今回はスナップお写真についてじゃ。
写真はビジュアルアートである反面、その容易さから趣味性の強いモノともなる。
言わば諸刃の剣である。
東京写真の主催者である写游人が撮る写真は、いわゆるビジュアルアートであると認識して良い。
それは写真家としての強い自意識がそうさせていると言って良いし、
写真家を名乗るならばそうでなければならない。
スナップ写真という物は、撮る対象により様々なジャンルに分類される。
その中で特に注意を払わなければならないのは、人物の入る写真である。
人物はあらゆる被写体の中で段違いの強さを持っている。それを撮影するのもスナップには違いないのだが、
最も困難な点であると言っても過言ではない。
写真というものはその字のごとく真実を写し撮るものであるから、スナップ写真では声を掛けるべきではない。
声を掛けた時点で、写真家としてはほぼ失格であると言って良い。撮りやすい状況を造るのはスナップ、つまり
ドキュメンタリーな部分において大きな損失であり、写真家としては情けないと言って然るべきだろう。
ならば、
人知れず相手に気付かれないように撮るのが良いのかというと、そうではない。
キャンディッド・フォト(candid photograph)はスナップではあろうが、別のジャンルに区分けするのが正しいだろう。
人に撮影の行為を覚られないようにするのが、キャンディッド・フォトなのだ。
つまり、
街頭においてカメラを剥き出しにし、撮影の行為をあからさまにするのが実はスナップ写真の行為であり
写真家はそれをしないとイケナイのである。これは街頭であろうが路地でああろうが変ることはない。
写真を撮る者の誰もが遭遇する壁であり、この壁は何時の世も取り払われることはない大きな障壁であることを
思い知らなければならない。
実はこれは撮影者にとっては大変なストレスなのだ。
つまり、
カメラを構えて写真を撮り続けていると、当然多くの人の目に晒される。
場所によっては、何を撮っているのかと聞かれることもある。
多くの人は怪訝そうに睨みつけることだろう。カメラのレンズの向いている方向に目を向ける人も多い。
誰もが興味を持ちカメラを向ける被写体に関しては、人々は寛容であり無関心となる。
美しい花にカメラを向けていれば、誰もが納得するからだ。
スナップはもとより、芸術にそんな仕分けは存在しない。
何気ないものに何かを感ずるのは芸術家だからであり、その対象は一般人の対象とは自ずから異なるのが常なのだ。
さりとて、
街頭において女性にばかりカメラを向けていたならばどうだろう。
如何に美しい被写体であろうと、無闇にカメラを向けることは難しいと言わなければならない。
芸術だろうと何だろうと、その別は全くわからないからだ。
つまり、キャンディッド・フォトは決して薦められない。
しかし如何に堂々と撮影を行おうと、撮影者の勝手で撮影していることには少しも変わりがないので、
カメラやレンズ、昔で言えばフイルムのテスト以外では
美しい女性や若い女性などの多い街頭でのスナップはしないように心がけている。
ちなみに言えば、フイルムやレンズのテスト撮影には、女性や子供などのしなやかな髪の毛や肌などが適している。
これは事実なのだが、デジタル時代になりそのようなテスト撮影も必要はなくなったと言える。
昨今でのテスト撮影は、そういう理由で全く街頭ではしない。
しからば、
街頭撮影がしたいが、カメラはどうしようという諸氏も多いだろう。
一眼レフは良いが、小型のカメラは止めた方が良い。首から提げることが鉄則で片手に持つのは止めた方が良い。
キャンディッド・フォトと間違えられるからだ。
カメラを構えることなくにあちこちうろつくのは決してしてはいけない。
写真を撮らないのにカメラを片手にうろつくのは極めてアヤシイではないか。
最近、
歩行者天国で写真を撮っている若い女性を見かけた。昨今は婦女子のカメラ志向が増大し、本格派も増大しているのだ。
彼女はほぼ同じ場所から一時間以上撮影をしていた。無論対象は人である。
これが男性であれば少しは状況が違ってくるかもしれない。そう心得たほうが良い。
なるほどのう、いつもの事だがわれながら感心じゃ。
これ見よがしにカメラを見せ付けて歩くのが良いのじゃのう。あははははは。やっぱそうじゃったか。
だまって聞いていればこのじじい。視ね。もとい死ね。
つづくぞい。