tokyoの写真の原点は恐らく鉄道写真だと思う。
別に鉄チャンだった訳ではないし、頻繁に写真を撮った訳でもない。
それでも、
古い写真箱を掻き回すと、何枚かの写真が出てくる。
今回は、そんな写真を載せてみた。懐かしい思い出であり、寂しい思い出の写真でもある。
恐らく、鉄道の写真を好んで撮らないのはそんな思い入れがあるからなのだろう。
鉄道に人が群がるのは今も昔も変らない。
そんなことがとても嫌だった。写真は絵を描くのとたいして違わない、そう思っていたのかも知れない。
だから、人が入り込む撮影は嫌だったのだろう。
時と共に鉄道も大きく変わっていき、昔の影を探す事ことは不可能になってしまった。
今にして思えば、かの鉄チャンたちのように写真を撮れば良かったのかも知れない。
一枚一枚丁寧に撮った写真は、時空を超えて蘇る。
そこには、在りし日の勇士と共に、自分の思いが映っている。
絶え間なく走り続けてきた彼らと同じように、弛まず歩き続けてきた自分とがだぶり合う。
今もtokyoは写真を撮り続けている。
その心は、初めて写真を撮った時と少しも変ることはない。
一枚の写真が残れば良い、そんな思いは変らない。
鉄道は、喜びも悲しみも乗せて人々を運ぶ。
楽しかった思い出もあり、苦しかった思い出もある。
寝台列車に揺られながら、眠れぬ夜を過ごしたこともある。
身動きできないほど混んでいた夜行列車。そう、北へ向かう夜行列車は歌の歌詞のように
本当に誰もが無口であった。
ガタごとと揺れる列車、線路の軋み、そんなものが、心に深く染み付いている。
鉄道は仇や疎かでは済まされない、現実を運ぶものであったろう。
つづく