フイルムカメラの王道は6x7判だと思っている。10年以前マミヤRZプロⅡを使っていたがそのカメラの写真は撮った記憶がない。
500ミリなんて望遠レンズもあったハズであるがその痕跡もない。
何を揃えるのにも価格が高くほんとうに苦労した。AEプリズムファインダーひとつ買うのに三年もかかったりした。
しかしほんとうは4x5のカメラを買うつもりだった。そのつもりが頓挫したのは、引き伸ばし機である。
カラー引き伸ばし機だと50万円近くする。
価格はともかく大きくて重くてムリ、それで4x5は泣く泣く断念した。
写真家である以上自分で現像しないなんていうのはモグリだと思っているし、現像・引き伸ばしは写真作成の基本だからだ。
他人に現像やプリントを頼むなんて写真家のすることではない。自分のパンツを他人に洗わせているようなものだ。
マミヤの6x7にしたのは、仕事で写真館の仕事に同席することが多々ありマミヤRBやRZの撮影を見慣れていたからである。とりわけ縦横がワンタッチで切り替えできるリボルビング機構は必須と思った。中判カメラは半端じゃなく重いのだ。
マミヤのレンズは描写が柔らかい。ネガを使うとほんとうにそう思う、もちろんネガは軟調な人物用だ。それでもそう思う。こぞって写真館が使うわけだ。
6x7は立て位置でピタリと印画紙サイズになる。便利なリボルビング機構によりカメラを立て位置にする必要はない。よって写真館御用達となる。人物撮影にはとても適したサイズなのだ。
反面、横が足りない分風景には苦労する。だが路地裏撮影なら問題はない。
ジュラルミンのケースに一脚をかついで撮影に行く。非常に目立つので困り果てた撮影が捗らないのだ。それで家からカメラに一脚をつけてむそのまま電車で撮影に行った。カメラは一脚ごと肩にかついで路地裏を闊歩した訳だ。
6x7は厳密なピントを必要とするし、絞り込むとシャッタースピードは極端に低下する。それでどうしても機敏さに欠けてしまうのだ。プロと間違えられて撮影許可を求められることも少なくない。それですっかり嫌気が差してしまった。以後は軽便なフジの6x4.5のフィールドカメラを持ち歩くようになる。
6x4.5はフォーマットとしてはかなり小さい。しかし6x7よりは枚数が撮れるしなにより軽い。35ミリカメラより軽いので非常に使いやすいのだ。
しかし持っていたフィールドカメラはレンズ交換ができない。それでマミヤを売却し中古のペンタックス645とレンズ3本を買った。
なぜかこのカメラで撮ったフイルムは未だに現像されていない。未現像100本の中に数十本はあるだろうが未現像なのだ。
じつはペンタックス単体で撮影に行く事はなく常に35ミリ一眼レフと一緒だった。それでメインは35ミリとなりペンタックスは出番がなかったのだ。
雑誌を見ると、多くの風景写真家はペンタックス645を使用して優れた作品を撮っている。ファインダーを覗いた瞬間に解るレンズの切れのよさは特筆ものだ、
それなのに自宅にはペンタックス6x4.5は既にない。
ここ数年時代は怒涛のごとく急激に変化した。フイルムカメラは多くが生産を終了し、フイルム自体もも淘汰されてしまった。
デジタルの夜明けである。写真の画質よりも、真実を伝える事を第一とする報道の現場でデジタルは急激に普及した。
デジタルでしか写真を撮らない人は可愛そうだ。フイルムのほんとうの良さも知らないし実力も知らない。
デジタルは輪郭強調や輪郭形成で成り立つ写真だけれども、フイルムにはそれがない。つまりほんとうの写真を知らないことになる。
もちろん人間の視覚にも輪郭強調などというのは存在しない。
4x5インチや8x10インチのフイルムによる画像は一見シャープネスがなく軟調に見える。デジタルでいかに輪郭強調の画像を見てきたか知るがいい。
それが本来の写真なのだ。
いやいや、フイルムがいいなんて言ってないし言うつもりもない。フイルムの粒子にはとことん悩まされてきた。荒い粒子は写真さえ変えてしまう。
だからこぞって低感度の微粒子のフイルムを使ったのだ。微粒子化がメーカーの使命だった時代が存在したのだ。
デジタルは粒子がないので粒子を付加するバカがいるあはははtokyoもそうだったりする。非常に愚かだが、
これは高感度モノクロフイルム全盛期の亡霊なのでしょうがない。
ノイズはエッジ効果があるので一見シャープに見えるのだ。まやかしなのだ。
現在のデジタル技術ではほぼ完全に4x5や8x10の画像を再現できるハズだ。しかし輪郭強調をしない画像には総スカンのブーイングを食らうだろう。
自動現像機の普及、いわゆるミニラボは写真の普及に及ぼした貢献度は計り知れない。しかし、弊害も抱え込んでしまった。
本来は一枚一枚調整しなければならないプリントというものを省略し、短時間仕上げという必要悪に走ってしまったのだ。
それで、
多くの人に写真の写りはこんなもんという概念を植え込んでしまった事だ。ファインプリントの素晴らしさを教える事はとうとうなかったのだ。
そういう人達がデジタルを手にしてポジ画像を当たり前に手に入れている。やっと本来の姿がやってきたのだ。
そうそう、写るんだよオバサン。プロじゃなくっても写真って綺麗に写るんだよ。
そうそうもうひとつ、おばさん買うならデジタルカメラはDP1がいいよ。あははは誰のよりある意味よさげに写るかもね。
願わくばミニラボの機械とオペレーターがもう少し努力してくれれば、フイルムはまだまだ安泰だったかも知れない。
tokyoは現在未現像の35ミリフイルムが10本以上ある。つい最近撮ったものだ。しかし同時プリントに出しかねている。
もうプリント機材はないので同時プリントしか方法はないのだが、仕上がりが見えているだけに出しかねるのだ。
かといってスキャナーを買うほどのこともないだろうと思っている。
じゃあなぜ撮ったんだといわれれば、
ファインダーの画像としか言いようがない。ミノルタのファインダーはじつに素晴らしい。覗いてシャッターを静かに切る。
この感覚は残念ながらデジタルにはない。
写真家だから、どんなカメラでもフォーマットでも写真を撮る段に関しては全く関係がない。出来上がった写真を見て、
こんな小さなファインダーで覗いて撮ったんだーと後で逆に感心することが多い。視野率も倍率も作品とは無関係なのだ。
しかしいくら視野率も倍率も作品とは無関係とは言っても、そこはそれ天才写真家(でました)だからできることであって
なおざりな機械を容認している訳では決してない。だいたいが努力が足りなすぎる。
35ミリフォーマットにAPSを付け足したのはいいとしてAPSフイルムは完敗したではないか。
まあデジタルはフイルムではないから交換する必要がない。つまり撮像子のサイズなどどうでもよいと高をくくっていたような
節がある。とはいえコンパクトデジタルカメラの撮像子のサイズの種類の多さには正直嫌気がさす。
それでもって一眼レフはAPSだったりフォーサーズだったりフルサイズだったりする。
35ミリフォーマットを勝手に変更するなんて暴挙の極みだ。もっとフォーマットには拘るべきではなかったか。
いまさら35ミリフルサイズをうんぬんなんて遅れてきた月光仮面のようなものだ。猛省を促すのだ。
いいかい、おカメラってものは記録代理人が写すハコなんだよ。それを忘れてはいけない。
素晴らしい風景を見て感動するのはプロもおばさんも同じなんだよ。プロだから感じ方が違ったりはしないんだよ。
だから、ハコは平等でなければいけないんだよ。誰が撮っても同じにならないのはハコが問題なんだよ。
もういい加減にこの辺でプロ用だの中級だの止めようじゃありませんか。
ハコによりフォーマットは変えてはいけないのだ。
フイルムは面積でしか解像度を上げられなかったから沢山種類があったんだろ。必要悪の極みだろ。
デジタルはそうあっちゃいかんのだよ。
中判のデジタルもあるが価格がべらぼう。ハコの差別の最たるものだ。
35ミリフルサイズで5000万画素や6000万画素は可能なハズ。そうすれば6x7も4x5も8x10もほんとうに不要になる。
ほんとうの意味でデジタル100%の時代になるだろう。
そういう近い将来のためにフォーマットを大事にするんだよ。
風呂場の湯桶なんて200年前も200年後もサイズはたいして変りゃしないんだ。なぜか。人間のサイズがそんなに変らんからだよ。
フォーマットなんてそんなもんだ。ピッタリするサイズは自ずと決まっているんだよ。
あれこれ小細工してもダメなのさ。
感動をありのままに。
やってるかい?あはははは。