平安時代東北は朝廷の支配の及ばない、独立した国であった。
蝦夷(えみし)と呼ばれる人が住んでいた国である。 (※北海道の蝦夷ではない)
当地区の蝦夷を支配していたのは秋田氏。 蝦夷はその苛政に長年苦しめられていた。
878年、蝦夷は近隣住民を率いて秋田城(733年築城)を襲う。 これが元慶の乱である。
蝦夷は以下の12村 上津野(鹿角)、火内(比内=大館)、榲淵(鷹巣=北秋田)
、野代(能代)、河北(琴丘)、腋本(脇本)、方口(八竜)、大河(八郎潟)、
堤(井川)、姉刀(五城目)、方上(潟上)、焼岡(金足)と3村を残し支配下にした。
朝廷は数千の兵を送ったが討伐できず、藤原梶長の寛政により蝦夷は降伏。
戦うことなく事態は収束した。
ここで注視してもらいたいのは、蝦夷の降伏である。
圧倒的な力を持った蝦夷の逢紀は侵攻でも乗っ取りでもなく、上訴であった。
それが故、藤原梶長の寛政に降伏したのである。 藤原梶長の朝廷への進言により、
朝廷は軍を解き事態は収束した。
以後は朝廷に属した者は俘囚(ふしゅう)とされ、田畑食糧を与え全国に移住させた。
苛政はいつの世も存在し、その度に一揆やら暴動・動乱が発生したのは歴史に
明らか。大塩平八郎の乱(1837年)などは有名であろう。
政治家は、いつの世も人民の平和と発展を願って行動しなければいけない。
基本であるが、解離することも多い。戒めであろう。
その後天慶の乱(938年)で秋田城は攻撃を受け、それ以降は概ね150年以上安泰で、
11世紀に廃城。 およそ400年から500年後に横手城(1554年)と大館城(1550年)
を設け盛岡からと弘前からの脅威を監視。
一国一城を基と成す国政としては、珍しい国であった。
何れの2城も戊辰戦争(1868年)で焼失した。
大館城は260年間続いたが、盛岡からの侵攻時に
11代佐竹城主が事前に自ら火を放ち焼失させたものである。
※ 資料はウイキペディア様より引用しました