クラシック音楽至上主義
大変に厄介な主張がある。クラシック音楽至上主義。これはクラシック音楽の楽譜至上主義と同じである。
クラシック音楽愛好者は、クラシック音楽のみを音楽だと断定する傾向があるようだ。
クラシック音楽は難解で取り付きにくく、それが為に理解したものは特別な優越感を持つに至のだろう。
しかしよくよく考えてみれば、それは物の少ない時代の音楽の表現方法に固執しているだけに過ぎないとも言える。100年以上前の流行歌というだけに過ぎない。
それは七面倒臭いSP盤のレコードを聴く儀式をこなして音を出すことや、乾板式の写真機を使い暗室に入って写真を仕上げて、
ほれどうだと言ってるのとたいして変わらない。
時代が変われば何でも簡単にできるようになるのだ。伝統だの格式だの、作曲者に対する儀礼だの・・・
まあ言いたいのは解らないでもないが。
時代は確実に変わるのだ。クラシック音楽は時代の流れの一時期にしか過ぎない事を知るべきだろう。
いま流行りの音楽も、あと100年もすればクラシック音楽となってしまう事を考えねば・・・。
そういう観点から見てrも、イージーリスニングはすでに50年を超えて70年近くになろうとしているではないか。
バッハの時代もモーツアルトの時代も、ポールモーリアの時代も変わりはしない。
まして、作られた音楽の重みだって少しも変りはしない。
先人は彼らに大きな影響を与えたが、イージーリスニングの大御所や他のアーチストだって
これからの人間には大きな影響を与えることは間違いないのだから。
ただにひとつのジャンル、それだけなのだ。