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※ フジコヘミング氏は2024年逝去されました。
※ 記事は2017年です。
ピアノを弾く人ならば誰でも、フジ子・ヘミングを知っているでしょう。
そしてその演奏には、ネットで賛否両論の評価も・・・。
フジ子・ヘミングのピアノは当然のことですが、他の誰よりも違います。
心から安心できる音楽(演奏)だと私は思っています。
彼女に対するネットでの批判は、ピアニストの嫉妬や、
有名になった妬みがほとんどです。ほとんどと言うよりも100%と言えます。
然るに、フジコヘミングは本当に下手なのでしょうか。
私はネットの、そういう意見に反論します。
「間違ったっていいじゃない」、「壊れた鐘があってもいいじゃない」と言っています。
それは、彼女に対する批判への返答なのでしょう。
「一音一音に色を付ける」とも言っています。
「演奏は猫たちを食べさせるため」とも言っています。
「間違いが多いから、とにかく練習」するんだそうです。
人は皆、楽譜から何を学ぶのでしょうか。楽譜通りに完璧に弾きこなし、
賞を取ることでしょうか。天才と褒めたたえられることでしょうか。
それは、単なる通過点ではないかと私は思います。
少なくとも、フジ子・ヘミングはそれらの先にいるのは間違いがありません。
難曲をキッチリとミスなく弾きこなし、人よりも速く弾く技量を持っても、
それはただ人と比較して優劣を付けるだけの段階でしかありません。
ステージに立ちコンサートを開き、沢山のお客を動員するのは、
まだまだ先のことでしょう。
ピアノをそれなりに、教科書通りに弾きこなすだろう人は恐らく
世界中に数万人いやもっといるでしょう。
ですから、彼女の演奏にいちゃもんを付けるのは、本当に見苦しい行為なのです。
鍵盤にかかる人生の重みは、そういう輩には伝わるべくもないのでしょうね。
今批判をしている輩は、彼女の数十年も前の演奏も努力も、もちろん知らないのです。
教科書的に弾く時代は、彼女にとっては遠い遠い昔のことなのです。
彼女にとって楽譜は、かつて正確に弾いた時代の教科書でしかないのです。
職人ではないのです。
誰もがなしえない芸術家の世界に、彼女は住んでいるのです。
彼女にとってピアノを弾けるというのは、プライドではないのです。
クラシック畑の人は楽譜オンリーですから、その呪縛から逃れることは
思想的にも演奏的にもできないのです。ですから、普通職人にしかなりえません。
何よりも自分の演奏を聴いてもらいたい、と言う高いレベル欲求がない限り、
その先に進むことはできないのです。
心底ピアノに掛けていなければできません。
寝食を忘れて没頭する覚悟がないと、所詮無理なのです。
上手下手を言っているようでは、まだまだ幼稚なレベルなのです。
写真の世界にも、絵画の世界にも、一見下手そうに見える
「へたうまの世界」が存在します。これは、一定の基準と言う物を勝手に作り
それよりも独創的な物を悔し紛れに表します。
認めたくないが、支持されるがために別枠で認める訳です。
なんだかなぁ・・・。
漫画家の世界ではいわずともがなですから言いませんが、
絵描きなら「ゴッホ」や「ピカソ」でしょうね。
簡単そうですが、実は簡単には描けません(実は私は、自称絵の天才です)。
それは、本当に絵を極めていなくては描けないからです。
ピアノもそうなのだと思います。フジ子・ヘミングを酷評する輩は、
まだまだそこまで行っていないのです。
そこそこの御仁は、彼女の演奏を聴いて「ミスはあるけど、これも納得かな」と、
苦しい言い訳をします。 なんだ、楽譜を拾った評価か・・・、
と思いますね。
どこ聞いてんだ、とも思います。
人より優れていることは大変に稀なことです。
クラシック音楽の世界は浪曲の世界です。「浪曲師行って見たよな嘘を言い」なのです。
誰もショパンやモーツアルトに会っていません。
だれもベートーベンやバッハに会っていないのです。
まして、当時の本人の演奏も聞いてはいません。
楽譜すら当時のままとは言い難いのです。
それなのに、偉そうにああだこうだと言うのです。
まさに浪花節の世界ではありませんか。
なんだかなぁ・・・。
楽曲を復元するのがクラシック音楽の世界。
それは、写真世界と同じです。 似て非なるものです。
記憶にとどめる物は楽譜に残しますが、それがベストではありません。ま
たそれだけの世界でもありません。
写真同様、無限のバリエーションの中の一つでしかないと知るべきでしょう。
ですから、一枚の写真や楽譜を辿るのはそこまでの世界なのです。
そこまでは職人の世界。
それから先に、自由な芸術家の世界が開けているのです。
フジ子・ヘミングはそういう芸術家であり、
彼女の演奏に感動する人は芸術を深く理解する人たちなのです。
フジ子・ヘミングを酷評する人たちは、
残念ながら芸術家の世界への門の扉を叩くことができません。
その先にある大きな感動の世界を味わえない、
可哀想な人々なのです。
今一度自分の人生を見直したならば、
いつか門の扉を叩くことができるかもしれません。
芸術は誰も拒みませんから・・・。